意を彫り技を刻む

〜匠の技−播州祭り屋台彫刻展〜
  
■ 場面紹介 (その2) ■
  

鎮西八郎為朝の強弓
 
保元の乱に敗れ、伊豆大島に流されたにも拘ず、近隣の島々を押領していた為朝は、狩野介持光に軍船にて攻め寄せられた。しかし、為朝が岩上に立ち先頭の船に狙いを定め、大弓を引き絞り矢を放つと、見事命中し、たった一矢にて沈めたので、為朝の強弓と後世にまで語り継がれいる。
 

名和長年後醍醐天皇御迎の場
 
元弘3年(1333)閏2月、千種忠顕を供に、隠岐島より脱出し、伯耆の豪族・名和長年に迎えられた後醍醐天皇は、長年の弟・長重に背負われ上陸し、船上山に立て籠もる。そこへ隠岐の判官佐々木清綱が、三千の大軍にて攻め寄せるも、名和一族の奮戦によりこれを討ち破り、建武中興の火蓋を切った。
 

佐久間玄蕃太閤本陣乗込の場
 
天正11年(1583)、賤ヶ岳合戦に於いて柴田勝家方の猛将・佐久間盛政は、右手に鉄棒を引っさげ敵陣に躍り込み、群がり来る敵兵を薙ぎ倒し、秀吉本陣目指し、一参に突き進む図。
 

芦屋道満童子問答の場
(※芦屋道満について)
 
「宇治拾遺物語」に安倍晴明と法力を争ったと有り、「峰相記」にはこれに敗れ、本国・播磨へ追放され、故郷・佐用にて流死し、子孫が英賀・三宅に広がり住み、陰陽の業を継いだ。と云う説と、佐用より飾磨・三宅に移り住み、薬屋を開業した。と云う二説がある。更に、「地志播磨鑑」には「佐用に塚有」と記載されている。又、加古川市東神吉町に、道満ゆかりの「こけ地蔵」が残っており、現在も、地元民から信仰を集めている。
 

楠公父子訣別桜井駅
 
大忠臣・楠木正成は、柔弱な長袖連中の為、足利尊氏を兵庫浜にて邀撃すると云う不利な戦に挑まねばならなくなった。出陣にあたり正成が、桜井駅にて息子・正行を呼び、形見の短刀を手渡し、今生の別れをする場面。
 

本能寺の変
 
天下統一を目指す織田信長は、明智光秀に対し、羽柴秀吉率いる中国征伐軍の加勢を命じる。しかし光秀は、その軍勢一万五千を率い反転、天正10年(1582)6月2日未明、信長の宿所・本能寺を急襲、謀叛に及び、希代の風雲児信長は、志半ばにして斃れた。
 

紅葉狩
 
平維茂が信濃・戸隠山に狩猟に出掛けたところ、美女に化け、紅葉狩りをする女鬼人に出逢い誘惑されかかるも、山の神に助けられ、退治する物語。
 

桜の木に赤誠を記す忠臣高徳
 
元弘2年(1332)2月、後醍醐天皇が隠岐に流される途次、勤皇の志篤き備前児島の住人・児島高徳は、天皇を迎え奮い奉らんとするも、叶わなかった為せめて自らの志を伝えようと、美作・院庄の御座所正面の桜木に赤誠を示す詩を大書した。
 

平知盛
 
公家化して、文弱の徒が多いと言われていた平家の公達の中で、知盛は典型的な武将として評価が高く、特に、壇の浦の戦で、兄・宗盛が捕らえられたのに対し、知盛は大錨を抱いて、いさぎよく海底に没したと云うので人気の高い武将である。
 

 
龍は神秘な力を有する想像上の動物。一説には、春分に天に昇り、秋分に淵に潜むといわれ、これを夫々昇り龍・降り龍と称す。又、古代中国では「五爪の龍」は皇室専用の表象である。更に信仰上では、満行者を龍と言い、夢判断に於いては、龍水中にあるは大吉、龍天に昇る瑞兆とある。
 

      
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